稲敷、干拓の理由
前回のブログで、干拓についてザックリしか説明していなかったので、今回のブログで捕捉していきます。
(大重地区の干拓は見つけられなかったので、見つけ次第アップします)
【干拓の理由】
干拓とは簡単に言えば、「水を引いて土地を増やす」こと。しかし現在の稲敷だけを見れば、年々人口が減少、空き店舗が増え、土地が余っているように見える。
干拓で土地を増やす必要があったのだろうか。
稲敷市立歴史民俗資料館
監修/佐久間好雄
答えはこれら書物に記されていた。
第二次世界大戦後、日本は敗戦による植民地喪失で朝鮮半島や台湾から移入していた米を失った。同時に、戦場から引き上げてきた兵隊による人口増加が伴い、食料不足が社会的問題となった。
稲敷も同様の事態が発生し、圧倒的な食糧難に悩まされた。移入米がないのであれば自分たちで作るしかない。引揚人がいたので労働力は申し分なかったが、肝心の農地が足りず、足踏みする状態が続いた。
そんななか、昭和20年11月、幣原喜重郎内閣は「緊急開拓事業実施要項」を閣議決定。
大正時代から竿代文蔵(さおしろ・ふみぞう)など地元の有力者たちが私財を投げて個人として干拓を行っていたが、それが国の事業として茨城県が代行し、本格的に始動した。
特に本新島は県下最大のプロジェクトに位置付けられ、山形や山梨など遠方からも入植者が集まり干拓に勤しんだ。
昭和32年に基本干拓工事が完了。道路、水路が整備され、本新島干拓中央には中央排水路が完備され、航空写真からも確認できる。干拓地は湖面より低いため、常に排水せねばならず、通常の電気モーターポンプと、停電時のディーゼルエンジンポンプを備えている。