稲敷市の歴史について(水辺・交通など)
主に時代背景は昭和初期から中期にかけて。
メモ程度のブログになりますので、ご了承ください。
【陸上交通】
・徒歩
現在はコンクリート続きの地盤であるが、県道をはじめ道にわずかな砂利が敷かれる程度で、地面はむき出しだった。成田山へ月参り(毎月一回決まって、神社やお寺に参詣(さんけい)すること。月もうで)する女性が、背中に弁当を背負って下駄履きで日帰りする姿が見られた。
・人力車
阿波と古渡に各一軒ずつ、人力車店があった。
当時、高価な乗り物で、貧困層は乗ることができなかった。
・馬車での輸送
貨物用の場所が市内で発生したのは、明治後期。明治34年ごろ、小林安之助が営業所を江戸崎に置き、馬車二台で「江戸崎~根本」「江戸崎~龍ヶ崎」の路線で客の輸送を行った。
篠田林蔵は5・6人乗りの場車一台を使い、江戸崎―竜ケ崎間を走らせた。
・自転車
普及し始めたのは大正期で、桜川地区では柏木の古山醤油店、神宮寺の臼田染物店の二軒が初めに自転車を得た。
・オートバイ
主流は『インディアン』『ハーレーダビットソン』製の製品で、稲敷市内で初めに所有したのは阿波の浜田商店(現存)店主。大正10年ごろ。
【水上交通】
・サッパ舟
東、新利根、桜川など、霞ケ浦沿いに住む住民の多くはサッパ舟(小型の舟)を用い、作物や人を運搬させていた。写真から読み取るに、現在のようなしっかりとした作りの櫂(かい)ではなく、ただの竹で漕いでいた。
・浮島水泳場の浜
・水の家水泳場
・浮島小袖ヶ浜
・和田港に来る定期船
・水小袖ヶ浜バンガロー(低層で比較的小規模な、主に宿泊施設として用いられる家屋の様式)
・和田岬バンガロー
・スイカ割りの様子
今では考えられないが、
昭和初期・中期では観光運輸船が行き来していたほど、賑わった場所であった。また、霞ケ浦自体も海水浴場が開かれるほど、きれいな水質だった。
【干拓】
浮島は元々、霞ケ浦に浮かぶ島だった。
1960年から1966年にかけて干拓(遠浅の海や干潟、水深の浅い湖沼やその浅瀬を仕切り、その場の水を抜き取ったり干上がらせるなどして陸地にすること。水域に土砂や廃棄物等を投入して土地を造成する埋立とは異なる)された。
現存する住所、西の洲、須賀津の一部、甘田(アマダ)の一部は浮島と本土を陸地続きにさせるため、干拓された箇所。
・甘田入干拓(あまだいり)
・野田奈川干拓(のだな)
・江戸崎入(稲波干拓)いなみ
・本新島干拓(もとしんしま)
・大重地区
・余郷入(鳩崎)
・西の洲
・羽賀沼
参考
平成28年度冬季企画展 稲敷の景観―変化する道・水辺・交通―(K682イ)
霞ケ浦の水質
霞ケ浦中洲(昭和43年)に撮影された写真には霞ケ浦で大根を洗う女性の姿が映っている。当時のキレイな水質であれば野菜を洗っても平気だったのだろう。
観光ラッシュ(北利根水門⇒横根黄門、昭和45年)
写真を見るに、小型舟が25隻ほど、乗客は一隻4名から7名であることから最低でも100名ほどの観光客が横利根閘門を訪れたということになる。現在は漁協の人間と幾ばくかの釣り人の姿が見られるだけで、写真ほどの活気は見られない。
写真下⇒当時(昭和38年)運行していたさつき丸。
参考
想い出の水郷 鴻野信夫写真集(K748コ)