第三回おはなし会開催について
市内で活動しているアマチュア劇団『劇団たからばこ』さんの協力のもと企画実施している『いなしきおはなし会』が第三回を迎えます。
この『いなしきおはなし会』は簡単に説明すると、朗読劇です。脚本を地域おこし協力隊の水元が、朗読を劇団たからばこの団員が行っています。
第三回いなしきおはなし会の詳細が決定したので、このブログにて紹介したいと思います。
日程:8月25(日)
場所:老人ホーム・宝永館の一階食堂
時間:午前10時から~11時
施設の利用者の方のみを対象としており、一般の方の参加は不可となっております。
また8月10日には、鹿嶋勤労文化会館にて、県東地区高等学校演劇連盟主催の県東地区大会が開催され、そこで第二回いなしきおはなし会でも朗読された『カゲグチ』というタイトルの童話小説が上演されます。こちらは一般の参加者も入場することができるので、ぜひ遊びに来てください。
場 所: 〒314-0031 茨城県鹿嶋市宮中325-1 鹿嶋勤労文化会館
時 間:10時~
料 金:無料
電話番号:0299-83-5911
妙岐ノ鼻について(植物、鳥類、野焼き)
妙岐ノ鼻名称の由来
この場所が霞ケ浦に向けて鼻のように突き出していることから。妙岐ノ鼻一帯は、今では見かけることの少なくなった、かやぶき屋根の材料となる葦が生い茂る「茅場」。その広さは50ha、東京ドーム約10個分もの広大な湿原で、関東では最大級のヨシ原といわれている。
妙岐ノ鼻
1.地勢
妙岐ノ鼻は霞ケ浦の南岸、新利根川河口左岸に位置する面積52haの低湿地で、茨城県稲敷市の浮島地区東端にある。
2.管理
現在、妙岐ノ鼻の管理者は水資源機構。野鳥観察ステージのほか、野鳥観察小屋、遊歩道、水辺デッキ、木道といった自然を観察する施設は水資源機構によって整備されたもの。
3.植物
ヨシ
カモノハシ
カサスゲ
などを主体とする湿地植物群落が分布。
北側の湖岸沿いは、乾燥地に見られるオギ群落やヨシ―セイタカアワダチソウ群落等が分布。「萱」と呼ばれるカモノハシはイネ科のカモノハシ属の多年草で、高さは30~70センチ程度。秋田県や栃木県には生息が確認されているが、地域的に絶滅が危惧されている。霞ケ浦周辺でカモノハシが確認されたのは妙岐ノ鼻のみ。
4.鳥類
オオセッカや
コジュリン
コヨシキリ
が繁殖している。
妙岐ノ鼻の歴史
現在の妙岐ノ鼻の面積は約52haとされているが、かつてはより広い面積を有していた。昭和初期から中期にかけて行われた干拓や堤防の建設によって、萱場の面積が徐々に減少していった。
妙岐ノ鼻の所有権の変遷
現在の所有権は前述のとおり水資源機構に置かれているが、かつては浮島村の所有地だった。(断定はできないが、明治以降)
1953年の町村合併促進法の公布から1955年には浮島村と古渡村の合併で、妙岐ノ鼻は浮島財産区の財産となった。1987年に水資源開発公団によって買収(途中、ゴルフ場用地として買収したいとの声もかかったが)、現在に至る。地区外者に支払われた金額は不明であるが、浮島財産区の財産であった土地は10億6000万円で処分された。
10億6000万円のうち6割が浮島財産区、4割が桜川村に充てられた。浮島財産区に入った約6億円から、入会権(いりあいけん)の放棄料として、当時萱場の入会権を持っていた202戸に対して、それぞれ100万円が支払われた。
妙岐ノ鼻が水資源開発公団に買収される1987年まで、妙岐ノ鼻は入会地(入会地とは、村や部落などの村落共同体で総有した土地で、薪炭・用材・肥料用の落葉を採取した山林である入会山と、まぐさや屋根を葺くカヤなどを採取した原野・川原である草刈場の2種類に大別される)的に利用されていた。当時、入会権を持っていたのは浮島地区の225戸。権利を持たない家の人たちは、本家などの親しい家から権利を借りて萱を刈り取り、それを屋根に利用していた。
1987年の水資源機構による買収の際、契約により入会権は消滅し、以後、浮島地区に住んでいさえすれば誰でも萱狩りをおこなえるようになった。しかし、そのころには茅葺屋根が徐々にトタン屋根や瓦屋根に代わってきており、自分の家のために萱を刈る人はほとんどいなくなっていた。
ヤーラモシ(野焼き)中止の理由
2005年のヤーラモシ終了後、つくば市の団体から「野焼きは環境汚染である」とクレームを受け、ヤーラモシ実施主体である浮島財産区は実施の是非について検討を行った結果、今後は主体者として実施しないことを決定した。
ヤーラモシについてそれぞれの思い
・水資源機構職員
水資源機構としては、昔から刈り取りして火入れして環境を維持してきたので、途端に野焼きをしなくったら環境が変わってしまうのではないかと危惧している。できれば野焼きを続けたい。
・稲敷市職員
市は妙岐ノ鼻を売却したのだから、権利はこちらにはなく、クレームの責任も取る気はない。また、水資源機構は水資源機構で、刈らせてやっているのだから管理は市の仕事だろうと、お互いにクレームを押し付けあっている。また、クレームに対する科学的な根拠(野焼きをすることでどういった環境保全が行われるのかといった)がなければ、クレームに対抗できないので、これから先も野焼きを続けていくことは難しい。
現在妙岐ノ鼻の萱を刈っているのは五人(2007年時点)で、それも生活のために使っているのではなくお金儲けのために萱を刈っているため、行政としては力を入れづらい。
・浮島財産区管理会
水資源機構がヤーラモシの主体になるのであればいくらでも協力するが、責任の所在が不明確な現状では野焼きに賛成できない。環境保全のためのヤーラモシを行っても、浮島財産区管理会には何のメリットもない。
・茅葺職人、萱師
野焼きをすればいい萱が出てくる。悪い萱だと売る時に申し訳ないから、できることなら野焼きを継続してやっていってほしい。また、妙岐ノ鼻にはいろいろな種類の鳥がいるけれど、野焼きしてもまた戻ってくるから鳥類には影響が少ないのではないか。
心情としては野焼きしてほしいが、妙岐ノ鼻を借りて萱を刈っている身分なので、萱刈りを禁止されるのが怖くて、市にも強く主張できない状態である。
野焼きの復活
2019年3月、妙岐ノ鼻のヨシ焼きが十五年ぶりに復活。
2005年、野焼きに対して環境汚染を懸念するつくば市からクレームが入り、水資源機構および浮島財産区管理会、市役所に責任の所在が問われ、それ以降野焼きは実施されなかった。また近隣住民からクレーム、2011年の東日本大震災などいくつかの要因が重なり、2005年以降は小規模な実験を除いて野焼きを中断していた。
今回の野焼きによって、病害虫駆除、植物の成長などが期待される。特に良質な萱の生成に役立っており、刈り取られた萱は水戸市にある偕楽園の好文亭の茅葺屋根に使われるという。
ヨシ焼きは3月3日午前九時から始まり、正午まで行われた。52ヘクタールのうち、約2.7
ヘクタールの湿原が燃やされる。火が全体にわたらないように、事前に約20メートル幅のヨシを切り取って防火帯を設けている。
当日、風向き・風速等問題なく実施され、周囲住民の影響や苦情等もなく大成功に終わった。
(写真:2019年3月3日、妙岐の鼻野焼きの様子)
参考 2007年度修士論文
参考 ヨシ焼きの再開に向けた取り組みについて 小野 正人
稲敷の観光材料、オオヒシクイについて
以前まで干拓について調べていたので、今回は稲波干拓にやってくるオオヒシクイについてメモ程度に記していこうと思います。
オオヒシクイの特徴
オオヒシクイはガチョウ大の鳥で、両羽をひろげると160センチ程度、全長は83センチくらい。体全体は褐色で、くちばしと足がオレンジ。ヒシクイはくちばしが短く先が鋭い、また首は短い特徴を持つ。オオヒシクイはくちばしが長く、丸みを帯び、また首は長い。
飛びながらグアングアンと鳴く。
飛ぶときの合図
飛び立つ前に数羽が首を横に振って周りのヒシクイも同じようなしぐさをし始めた後に、一斉に群れが飛び立ったという観察記録がある。
(写真上ではほとんど見分けがつかない)
ヒシクイの性格
ヒシクイは沼太郎という異名を持つ。白鳥のように見た目がきれいなわけではなく、泥だけになってエサを食べるその様はまさに異名通り。性格も引っ込み思案で、体全体を見せることはめったにない。茂みに隠れていたり、稲に隠れていたり、マガンや白鳥に比べてヒシクイは突出してシャイである。
とにかく臆病で警戒心が強い。マガンよりも湿っぽいところに住んでいて、人が容易に近づけないような場所に潜んでいる。
エサの種類
冬期は主に植物食で、水生植物の葉、茎、根、あるいは他の落ちモミを食す。最も顕著にみられたのは、稲の茎の根元の食痕であり、またイネの籾の食痕も見られた。稲以外の食物では、特にスズメノカタビラ、スズメノテッポウの食痕が多くみられた。
ヒシクイの越冬ルート
オオヒシクイは主に群れで動き、秋の終わりころ北海道に飛来し、冬期には本州北部に移動する。
カムチャッカ半島の繁殖地で標識を付けたヒシクイが日本で発見され、カムチャッカ半島のヒシクイが日本へ渡来していることがわかった。また、日本への渡来ルートはシベリアのアナドゥリ低地からオハ、アニワ湾、北海道宮島沼へと移動するサハリンコースと、カムチャッカ半島から北海道生花苗沼などを経由してくる千島列島コースの二つと推定されている。
日本での代表的な越冬地
新潟の福島潟・朝日池、宮城県の伊豆沼、石川県の片野の鴨池、滋賀県琵琶湖、のほか関東圏唯一の霞ケ浦など。
渡り鳥の利点
渡り鳥は長距離を移動しなければならないから、群れからはぐれたり、外敵から狙われたりする危険性が増え、渡りをしない鳥のほうが得なように見える。
しかし決してそうとは言えず、渡りをする鳥にはやはりそれなりの利点があるから、そうした習性が発達してきたし、一年中とどまっている鳥にもそれなりの利点がある。
渡りをする鳥(今回の場合、雁を例にとる)の利点を考えてみると、繁殖地は極北部で、彼らは冬が訪れる前の9月ごろから南に向けて飛び立つ。そのころ、まだ極北部にはエサは残っているし、雪が降ったり、吹雪に見舞われているわけではない。
しかし、もし彼らが10月11月までその場にとどまっていたとしたら、エサになる木の実や虫もなくなり、やがては降雪に見舞われて確実に飢えと寒さで死んでしまうことだろう。
それならば初めから南にいればいいように思われるが、実際はそうでもない。北の地域は夏になると日照時間が長く、単一の環境が続くから、エサが豊富になって、雛を育てるのに絶好の環境に代わるからだ。ガンは繁殖期になると北に移動する。
生活場所としては稲波干拓地、霞ケ浦、小野川の三か所が主で、観察時期のみで見てみると、稲波干拓地89.6%、霞ケ浦5.5%、小野川4.5%となり、稲波干拓地の比重が大きい。
ヒシクイの群れは各生活場所を使い分けているようで、稲波干拓地は採食、休息、羽づくろいなどの基本的な生活要求を満たす場として機能し、一方霞ケ浦は主に攪乱を受けた場合の避難場所として機能、小野川は主に渡来初期と渡去前にねぐらとして利用されていた。
生活場所間の移動
生活場所の移動は、午前6時から深夜の23時ごろまでで、移動のピークは早朝と夕方に見られた。早朝の移動はすべてねぐらから稲波干拓への移動であり、主に6時から7時ごろにかけて観察された。季節での変化も見られ、主に日の出前後の約一時間に観察された。
また、夕方の移動のほとんどは稲波干拓地からねぐらへの移動であり、ねぐらへの移動は16時30分から18時ごろにかけて観察された。こちらも季節によって変化があり、主に日没後30分以内に見られた。
【K488カ】
編集/柿澤 亮三 ㈱地域環境計画【K488カ】
新潟県の福島潟では9月ごろ5000羽以上のオオヒシクイが越冬し、西蒲区の岩室温泉は「霊雁の湯」とも呼ばれているくらいオオヒシクイが有名な土地。新潟の魅力を発信するサイト『ガタプラ』ではオオヒシクイに関する情報を載せ、オオヒシクイを観光材料として捉えている。
新潟魅力発信サイト『ガタプラ』
https://iju.niigata.jp/gatapra/about
また、実際に稲波干拓のオオヒシクイを観察している「雁の郷友の会」の観察員の方にお話を聞いてみると、東京や千葉、神奈川、埼玉など都市圏のほか海外からもオオヒシクイを観察しに来る団体が訪れるそうで、オオヒシクイの人気の高さがうかがえる。
稲敷、干拓の理由
前回のブログで、干拓についてザックリしか説明していなかったので、今回のブログで捕捉していきます。
(大重地区の干拓は見つけられなかったので、見つけ次第アップします)
【干拓の理由】
干拓とは簡単に言えば、「水を引いて土地を増やす」こと。しかし現在の稲敷だけを見れば、年々人口が減少、空き店舗が増え、土地が余っているように見える。
干拓で土地を増やす必要があったのだろうか。
稲敷市立歴史民俗資料館
監修/佐久間好雄
答えはこれら書物に記されていた。
第二次世界大戦後、日本は敗戦による植民地喪失で朝鮮半島や台湾から移入していた米を失った。同時に、戦場から引き上げてきた兵隊による人口増加が伴い、食料不足が社会的問題となった。
稲敷も同様の事態が発生し、圧倒的な食糧難に悩まされた。移入米がないのであれば自分たちで作るしかない。引揚人がいたので労働力は申し分なかったが、肝心の農地が足りず、足踏みする状態が続いた。
そんななか、昭和20年11月、幣原喜重郎内閣は「緊急開拓事業実施要項」を閣議決定。
大正時代から竿代文蔵(さおしろ・ふみぞう)など地元の有力者たちが私財を投げて個人として干拓を行っていたが、それが国の事業として茨城県が代行し、本格的に始動した。
特に本新島は県下最大のプロジェクトに位置付けられ、山形や山梨など遠方からも入植者が集まり干拓に勤しんだ。
昭和32年に基本干拓工事が完了。道路、水路が整備され、本新島干拓中央には中央排水路が完備され、航空写真からも確認できる。干拓地は湖面より低いため、常に排水せねばならず、通常の電気モーターポンプと、停電時のディーゼルエンジンポンプを備えている。
稲敷市の歴史について(水辺・交通など)
主に時代背景は昭和初期から中期にかけて。
メモ程度のブログになりますので、ご了承ください。
【陸上交通】
・徒歩
現在はコンクリート続きの地盤であるが、県道をはじめ道にわずかな砂利が敷かれる程度で、地面はむき出しだった。成田山へ月参り(毎月一回決まって、神社やお寺に参詣(さんけい)すること。月もうで)する女性が、背中に弁当を背負って下駄履きで日帰りする姿が見られた。
・人力車
阿波と古渡に各一軒ずつ、人力車店があった。
当時、高価な乗り物で、貧困層は乗ることができなかった。
・馬車での輸送
貨物用の場所が市内で発生したのは、明治後期。明治34年ごろ、小林安之助が営業所を江戸崎に置き、馬車二台で「江戸崎~根本」「江戸崎~龍ヶ崎」の路線で客の輸送を行った。
篠田林蔵は5・6人乗りの場車一台を使い、江戸崎―竜ケ崎間を走らせた。
・自転車
普及し始めたのは大正期で、桜川地区では柏木の古山醤油店、神宮寺の臼田染物店の二軒が初めに自転車を得た。
・オートバイ
主流は『インディアン』『ハーレーダビットソン』製の製品で、稲敷市内で初めに所有したのは阿波の浜田商店(現存)店主。大正10年ごろ。
【水上交通】
・サッパ舟
東、新利根、桜川など、霞ケ浦沿いに住む住民の多くはサッパ舟(小型の舟)を用い、作物や人を運搬させていた。写真から読み取るに、現在のようなしっかりとした作りの櫂(かい)ではなく、ただの竹で漕いでいた。
・浮島水泳場の浜
・水の家水泳場
・浮島小袖ヶ浜
・和田港に来る定期船
・水小袖ヶ浜バンガロー(低層で比較的小規模な、主に宿泊施設として用いられる家屋の様式)
・和田岬バンガロー
・スイカ割りの様子
今では考えられないが、
昭和初期・中期では観光運輸船が行き来していたほど、賑わった場所であった。また、霞ケ浦自体も海水浴場が開かれるほど、きれいな水質だった。
【干拓】
浮島は元々、霞ケ浦に浮かぶ島だった。
1960年から1966年にかけて干拓(遠浅の海や干潟、水深の浅い湖沼やその浅瀬を仕切り、その場の水を抜き取ったり干上がらせるなどして陸地にすること。水域に土砂や廃棄物等を投入して土地を造成する埋立とは異なる)された。
現存する住所、西の洲、須賀津の一部、甘田(アマダ)の一部は浮島と本土を陸地続きにさせるため、干拓された箇所。
・甘田入干拓(あまだいり)
・野田奈川干拓(のだな)
・江戸崎入(稲波干拓)いなみ
・本新島干拓(もとしんしま)
・大重地区
・余郷入(鳩崎)
・西の洲
・羽賀沼
参考
平成28年度冬季企画展 稲敷の景観―変化する道・水辺・交通―(K682イ)
霞ケ浦の水質
霞ケ浦中洲(昭和43年)に撮影された写真には霞ケ浦で大根を洗う女性の姿が映っている。当時のキレイな水質であれば野菜を洗っても平気だったのだろう。
観光ラッシュ(北利根水門⇒横根黄門、昭和45年)
写真を見るに、小型舟が25隻ほど、乗客は一隻4名から7名であることから最低でも100名ほどの観光客が横利根閘門を訪れたということになる。現在は漁協の人間と幾ばくかの釣り人の姿が見られるだけで、写真ほどの活気は見られない。
写真下⇒当時(昭和38年)運行していたさつき丸。
参考
想い出の水郷 鴻野信夫写真集(K748コ)
初心者必見!! イベント開催の極意(だいぶ大きく出た)その7
7月8日(日)、イベント当日。
イベントスケジュールはこちらから
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イベント前日はなかなか寝付けず(おそらく不安から)、早めに起きて早めに庁舎へ向かいました。イベント開催地である和田公園に持っていく荷物はまだ庁舎の中にあったので、それをすべて公用車に積み込み、ほかメンバー(地域おこし協力隊が三名、職員が四名)が集まって出発。公用車二台のほかに流しそうめん台を積んだトラック一台で和田公園へと向かいます。
途中、神崎屋というスーパーに立ち寄り、氷など当日必要な食料品などを受け取って再出発。
和田公園到着が大体9時近く。一時間後にはイベントが始まってしまうので、各々準備を始めます。流しそうめん台はほとんど作成済みで、あとは足場を固めて台を載せるだけの状態。準備自体は、前もって段取りを試行していたかいもあり、なんなく完了しました。
問題は参加者の集まりが悪いこと。あと十分でイベント開始という時点で、姿が見える家族は二組ほど。それから徐々に人が集まってきたものの、どのタイミングで流しそうめんを開始するのか悩んだ挙句、20分ほど遅れてイベント開始と相成りました。参加者の方が時間を持て余してしまうかなとも思いましたが、あんぺらぽん(水鉄砲)やシャボン玉など持ってきていたおかげで何とか時間をつなぐことができました。子供連れの家族が参加するイベントの場合、こういったおもちゃ的なものがあってもいいのかもしれません。
イベントの幕開けは笹船つくり体験から。炊事場の裏手にレジャーシートを引いて、
レッツ笹船つくり!
子供たちは笹船つくりが初めてなのか、だいぶ苦戦していましたが、楽しくわきあいあいと参加しておりました。
そして始まる流しそうめん。
今回、参加者を名札の色で二組に分け、交互に流しそうめんを食べる形にしました。そうすることで時間が稼げるのと、間が空けばそれだけおなかに余裕ができてたくさん食べれるかなと考えた結果です。
実際……
めちゃくちゃ余りました、時間
そもそもタイムスケジュールの時点で流しそうめんに二時間かかる予定だったので、そこからまずあり得ない設定だったのが敗因。二回転、三回転と組みを変えるごとに流しそうめん台から人が一人減り、二人減り、最後のほうは子供たちの遊び場と化して、流れる水に手を突っ込み、きゃっきゃっと笑い転げる始末。
一時間ほどスケジュールを前倒しし、笹飾りつけを始めることに。
こちらも余裕をもって一時間に設定してましたが、大体三十分で終了。それぞれ思い思いの願い事を紙に書いて、飾りつけしていきます。
続いて、笹船流しに入ります。和田公園はサイクリングロードに隣接していて、霞ケ浦もすぐそこ、という立地にあり、みんなでぞろぞろと歩いて目的地まで向かいました。
きちんと泳いでいく笹船はなかなかありませんでしたが、風情だけでも楽しんでいただけたのではと思います。
イベント終了後、笑顔で帰っていく親御さんや子供を見て、「なんとか成功したのかな?」とほっと胸をなでおろした次第であります。
最後に、戒めのための反省点
1.タイムスケジュール、余裕持たせすぎた
2.笹船つくりから流すまでが長すぎた(なくす子が多く、結局作り直す羽目に)
3.動き回りすぎた(指示すればいいものを、自分で動きすぎたこと)
初心者必見!! イベント開催の極意(だいぶ大きく出た)その6
流しそうめん台の作り方をそもそもしらない僕は、当日、「なるようになるっしょ、余裕余裕」と楽観的に竹切現場へと向かいました。イベント開催日の3日前、7月5日のことです(この時点で7月7日は雨天予報のため中止となっていた)。
加工場を借りることになった会長さんとともに、竹伐採場所へと向かいます。トラックに揺られに10分ほど、うっそうと竹が生い茂る(?)竹林に到着。なたとハンマーとのこぎりだけをもっていざ竹林の中へ。
中へ……。
入りたくねえ……。
外は晴れているのに竹でおおわれているためか薄暗いし、竹も竹で人が入ることを想定して生えているわけではないので、体をひねるように竹と竹の隙間を縫って歩かなければならず、非常にわたりづらい、当初の予定では、というか思惑では、入って目の前の竹をちょちょっと切って、はいさいなら、となるはずだったのに。
外から見ると一様に生えているだけの竹に見えますが、それぞれ色も違えば太さも硬さも違う。流しそうめん台に必要な事項をクリアする竹がなかなか現れず、竹林の中をうろうろ。夏場の真っただ中なので、ちょっと歩くだけでも汗が出て、周りは竹に囲まれているため、風も通らず……。
やっとお眼鏡にかなう竹が見つかった……と思いきや、
そこにあるのは急斜面。すこしでも足を滑らせたらと思うと(実際は竹に囲まれているので、下まで落ちるということは絶対にない)、体がこわばり、竹のそばまで行くことすらままなりません。
会長の叱咤激励があり、なんとか目的の竹まで到達。その場にうずくまり、のこぎりでぎこぎこと竹を切り始めます。斜面での作業ですから、体勢もつらく。そもそものこぎりの扱いですらド素人なのに、なんて心のぼやきもはさみながら、汗だくになってとった竹がこちら。
(実際の本数取った本数はもう少し多いです)
3メートルの竹が3本、1.5メートルが9本、1メートルが9本と。たかだか竹を切っただけなのにもう死にそうな勢い。ここから加工までやらないといけないのかと、若干白目になりながら、昼休憩をはさみ、いざ、会長の待つ加工場へ。
加工場にはのこぎりやらハンマーやらスクリューやら備品がおいてあり、今回の流しそうめん台を作成するのに必要だったものは、
1、ハンマー(節をとるため)
2、のこぎり(長さ調節のため)
3、なた(枝をとるため)
4、グラインダー(切った竹の表面を触ってけがをしないよう)
これくらいでしょうか。あと仮に台を針金で巻くならペンチも必要でしょうし、地面に打ち付けてぐらつかないようにするなら、杭も必要になってくるでしょう。
材料と工具がそろい、まず初めに行ったのは、流しそうめんレーンの作成。三メートル級の竹をなたとハンマーを用い、二つに割ります。(写真撮らなかったのが悔やまれる)
続いて、割ったレーンの節をとります。節はハンマーである程度取ることができますが、すべてを除去することはかなわないので、グラインダーを用いるなりしてつるっつるにすることも可能です(ある程度節が残っていても、そうめんは容易に流れます)。
続いて、脚の作成。今回僕たちが試した方法は、
1、まず三本の竹を用意する
2、三本の竹をうまい具合に交差するよう配置する
3、針金で竹をぐるぐる巻く
4、レーンを載せて調整
といった工程で行いました。この時会長から言われたのが、「子供が間違って倒しても簡単には倒れないくらいの強度にしよう」と。はじめは地面に杭でも打ったほうが強度が増していいのではないかと言われていましたが、公園に杭を打つのもためらわれたので、針金だけで巻くことにしました。しかしこれが意外や意外、三本の竹が互いを支えあって(若干のぐらつきはあるものの)押しただけでは倒れることはありませんでした。
それを三レーン分作って、丸一日分、流しそうめん台作成に明け暮れていました。
※ちなみに、流しそうめん作成の合間に、使わなかった竹を衛星土木に持っていく作業があり、これも骨が折れる作業でした。
準備物がそろい、流しそうめん台作成も何とか終了、あとやるべきことは当日の快晴を願うくらい。
そうして、いよいよ、イベント当日を迎えたのです。