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茨城県稲敷市地域おこし協力隊が稲敷について語ります。

ニンテンドーラボが人気らしい。

ニンテンドーラボが人気らしい。

 

Nintendo Labo』は、いろいろな形に組み立てたダンボールとNintendo Switchを合体させ、自分だけのコントローラー「Toy-Con」をつくってあそぶ、これまでにない体験ができるキットです。

動く組み立て説明書を見ながらToy-Conを「つくる」。

Nintendo SwitchJoy-ConとToy-Conを合体させて「あそぶ」。

作ったToy-Conの仕組みを理解してさらなるあそびをつくる「わかる」。

「つくる、あそぶ、わかる」を体験しているうちに、いつのまにか自分だけのあそびを発明できるかもしれません。

 

 

段ボールを組み立てて遊ぶなんて、諸葛亮孔明並み天才的発想。

組み立て方法は手取り足取り、スイッチが教えてくれる。画面をタッチするだけで作れる、動く組み立て説明書と銘打っているだけあって、小さい子供でも簡単に作成可能。鋏を使うこともないので、安心安全。知育にも最適な今商品。

でもなんだかなあ、と、哀しい気持ちになるのはどうしてなのか。楽しくゲームしているんだから問題ないじゃない。でもなあ。このもやもや感は一体何なんだろう。

 

ゲームが嫌いなわけじゃない。

実際、ぼくの子供時代も任天堂さんにはずいぶんとお世話になっていて、一番初めに買ったゲームボーイでは、ポケモンが大流行して、躍起になって「ポケモンゲットだぜ!」と連呼していた。モンスターボール投げまくりの人生だった。

友達と遊ぶのもゲームばかり。秘密基地で集まって、ポケモンバトルしたり、交換したり、ときにはセーブデータを消されて泣いたり。ラジバンダリ。遊びとゲームは切っても切れないN極S極的な関係性。

だからゲームはむしろ好きなくらいだ。

 

今回のラボは、デジタルとアナログの融合を可能にした特例で、まず間違いなく子供たちにはうけるだろう。工作が嫌いな子供なんていやしない。わくわくさんとゴロリを知らない子供なんて子供じゃない。

しかし、引っかかる。なにかが。そのもやもやは、稲敷に住んでいたおかげで解消された。

 

その日、ぼくは江戸崎・笑遊館にて、幼稚園生相手に、紙芝居を読み聞かせていた。三日目ということもあって、初日のように幼稚園生相手にガクガクブルブルすることもなく、難なく一押し事終え、帰ろうとしたとき「笹船作ったことある?」と、唐突に、おば……おねえさまに聞かれた。

ぼくは全くピンと来ずに、「新聞紙で作るんですか?」と見当違いの質問をしてしまったのだけれど、相手は特に気にも留めずに笹船の作り方を教えてくれた。

作り方はいたって簡単だった。笹の葉を一枚用意し、中央に両端を持ってくるように折り曲げ、折り曲げたところに二つ縦に切込みを入れる。切り込みを入れたら、片方をもう片方に折り込む。←説明下手でごめんなさい

その些細な時間を、ぼくはとても楽しんだ。笹船の作り方を知らなかったから、一つ勉強になったのもそうだし、こうして交流が持てたことに「稲敷はいいなあ」と、思えたからだった。

 

ぼくがニンテンドースイッチラボに対して悲しみを覚えたのは、「教えてくれる先生が機械」であることに他ならなかった。親が教えてくれるわけでも、友達が教えてくれるわけでも、おばあちゃんおじいちゃんが教えてくれるわけでもない。機械が教えて、子供が作る。そこには、昔ならあったはずの交流が欠如していて、ひどく無味乾燥としたつまらなさをひしひしと感じてしまった。

 

この現象は違う場面でもよく遭遇する。例えば、松屋やよい軒などの定食屋。チェーン店にありがちな、タッチパネル式の券売機においても、同様のむなしさを感じてしまう。タッチパネルの券売機は急いでいるときには便利だし、店員さんサイドも余計な仕事をせずに済むから一石二鳥なのかもしれないけれど、「機械」が相手だとどうしてもやるせなくなって、コミュニケーションを取ることも酷く億劫になってしまい、「ごちそうさま」も言わずにその場を立ち去ることが多い。機械を介在させるだけで、コミュニケーションを取る場が一つ減ってしまうのだ。

 

昔は「大人と子供」の交流だったのが、今は「機械と子供」の交流になってしまっている。それはそれで面白いし、楽しいけれど、子供時代に受ける影響ってやっぱりすさまじいものがあるから、機械だけに頼って知育するのも違う気がする。大人と子供の交流があって初めて信頼関係が生まれて、人を好きになって、ひいては地域が好きになって……。

 

大人と子供が交流する機会をもっと増やさなければ。

稲敷でやったるで。